開け放した縦長い格子窓が風の勢いでかわりばんこにバタン、バタンと音をたてていた。無数の窓から吹き抜ける青嵐が頬を撫でる。
今日のパリのお天気は肌を焦がす程の快晴。鼻歌まじりで部屋の片付けをしていると、キッチンでカタカタと物音がした。風で揺れている窓ガラスの音とは違う。まだ会ったことのない大家さんは長いバカンスに出掛けており、二ヶ月間この家には私しかいない。はて不思議だなと頭をかしげ音のするほうへ向かった。
キッチンの手前にあるサロンまで差し掛かったところでいつもと部屋の様子が違うことに気が付いた。私の右足は固まり、これ以上前へ進めなくなった。見知らぬ茶色のポシェットがソファの背もたれに掛けてあったからだ。さっきまで何もなかったのに!開けたはずのないテラスの窓が全開になっており、誰かがキッチンにいる気配がした。
のそりとキッチンから出てきた男と目が合い、物凄い速さで私の心臓が激しく波打った。
だ、誰?
頭が猛スピードで回転し、いま自分が危険にさらされているか、どうするべきか等ありとあらゆる事を判断している。殆ど反射的に口をついて出た言葉は意外にも「こんにちは」だった。
出来る限り平静を装って様子を伺った。男はそんな私の心配をよそに、こう続けた「私は大家の息子です。今日はとても天気が良いからテラスで日光浴しようと思って来たんですよ」と。
パリに着いた初日、サロンの本棚に飾ってある家族写真を私は時々眺めていた。ふくよかで髭をはやした旦那様と品のある美しい奥様、その横に彼等の子供達が2、3人写っていた。同居する大家さんご夫妻は年配だと聞かされていたので、その写真は恐らく40年ほど昔のものだろう。彼らの娘さんが時折このアパルトマンに来てテラスの花に水をあげる、という事も事前に聞いていた。
しかし、息子の話は一寸たりとも出てこなかったので「僕は息子です」と挨拶されたところで信用できるはずがない。男に気付かれないようにチラリと横目で古ぼけた写真をもう一度確認した。写真に写っているあどけない少年が、いま私の目の前にいる男と同じ?一致しないじゃないか!
私はキッチンで洗い物をする振りをして包丁を手繰り寄せた。いざと言う時に反逆できるように。しかし、男はテラスの椅子に寝そべりラジオを聞き始めた。それでもまだ私は警戒心を解けなかった。念のため、男の名前を確認した。名はブルーノ。その場で大家さんに電話すれば良かったと後になって思ったが、場数を踏まないと正常な判断ができないものだ。
とにかく避難するしかないと判断した私は、彼への挨拶もそこそこに飛び出すように外へ出た。
幾週か時が経ち、大家さんに確認を取ってみたところ。ブルーノは正真正銘の息子だった!私の勘違いも甚だしいが、寿命が縮む経験はこりごりだ。